モデリングが得意な人はSF好きか?

森下一仁「思考する物語 SFの原理・歴史・主題」東京創元社(2000)


はすごい。ここまで深くSFというものを明確に定義しようという野望は
著者の愛以外の何ものでもあるまい。感じ入ったところを以下に3箇所ほど引用。
しかし、著者の愛には申し訳ないが、以下の『SF』というところを『モデリング』と
置き換えても十分意味は通じるのではないか?ということで、今日の命題:


   モデリングが得意な人はSF好きか?


果たしてこの命題は正しいか?周りのみんなに聞いて回りたい。しかし、確かに
モデリングの楽しみの1つがセンス・オブ・ワンダーだというのは間違いない。


引用1:p33
ここでファンタジーとSFの違いをはっきりさせておこう。
…つまり、ファンタジーはあるフレームのスロットに"間違い"を導入したものであるが、その"間違い"の影響は他のフレームには及ばない。たとえば、象のように大きい犬がいる、としても、それはそれだけのことで、そのような逸脱を可能にした原因が、他のフレーム--とりわけ、舞台となる世界そのものを歪ませたりはしない。
これに対してSFは、ひとつのフレームの逸脱が、他のすべてのフレームと関係している。影響が次々と広がり、もっとも大きなフレームである世界全体に及ぶ時、我々はセンス・オブ・ワンダーを感じる。つまり、SFに出現する"間違い"の原因は、世界の全体構造に由来するのである。
…ファンタジーにおけるそれの典型は魔法である。魔法はフレームを歪ませたり、歪んだフレームを修正したりする力と言い換えることができるが、しかし、その力のよりどころを理解させるスロットをもっていない。"魔法"というフレームには、その効力だとか呪文だとかに関するごく少数のスロットしかないのだ。いってみれば、ほとんど空っぽのフレームである。


引用2:P35
ファンタジーにしろSFにしろ、人間が環境に適応してゆくためには何の役にも立たない、間違った認識の一種である。このような"間違い"を楽しむことができるのは、なぜだろうか?
もう一度、生存のための"余剰"という考え方に立ち戻って検討してみよう。まず、間違った認識もひとつの認識であるということ。つまり、現実と一致しないフレームを形成することも、フレームを形成する経験であることには違いないということである。おそらく進化の過程で、フレーム形成には快感が伴うようになっている。正しい認識を得ることを促進するための"報酬"である。人間にとって何かをわかるということは、つねに喜ばしい体験なのだ。心の働きを「知」「情」「意」の3つに分ければ、「知」は、「情」や「意」と結びつくことによって初めて存在するのである。快感という"報酬"は「情」に強く訴えかけ、「意」を生起させる。


引用3:p36
センス・オブ・ワンダーは新しい世界のフレームを手にした時の心の躍動である。しかし、それは一瞬にして古びてゆく。…ある程度、作品を読み漁るとSFを卒業してゆく読者が多いのは、このためである。彼らは幾種類かのセンス・オブ・ワンダーを味わいつくし、新たな作品から得られるのはすでに知ったものの類型でしかないことに気づいて、SFを手にすることをやめるのだ。…SFはつねに新しい領域を拓いてゆかねばならないという宿命を担っている。そうでなければ、SFは初心者のみが集う未熟なジャンルに留まるだろう。